激走!中山道315km⑥滋賀近江八幡〜京都三条大橋(45km)
長野塩尻を出て6日目の朝。
最終目的地の京都まで後45キロ地点、滋賀県の近江八幡まで来ました。
この辺りから婆裟羅な城、安土城が見えていたと思うと感慨一入です。
朝の6時は冷え込みます。
バラクラマ(目出し帽)を着用し走り始めます。
11月は寒暖差が激しいので朝夕は冷え込みますが、
昼はぐっと気温が上がります。
この時間だけの辛抱……。
この6日間、時には商店がない区間もあり、
それはこのトレイルバターで凌いでました。
近江八幡を出て中山道と合流し、暫くすると竜王かがみの里近辺に、
牛若丸が追手が迫っているのを察し、鏡池の岩清水を鏡にして前髪を落としたという
伝説が残っています。
この池を鏡代わりに使ったのだそう。
少しだけ水がありました。
そしてもう少し先には平家終焉の地。
壇ノ浦の合戦に敗れた平宗盛親子がここで処刑され、
首は京都に送られたといいます。
胴体はここで葬られました。
諸行無常の響きあり。
少しずつ日も高くなってきました。
なかなかの画伯っぷり。
背くらべ地蔵。
背が高いお地蔵さんと、低いお地蔵さんがいて、
低い方の身長と同じになれば子どもは一人前とみなされるらしいです、この辺では。
この辺は住宅街で、野洲駅がすぐ近く。
野洲高校と言えば担当していた2006年の全国高等学校サッカー選手権優勝校。
これで「やす」を「のす」と読まないことを覚えました。
酒蔵、宇野勝酒造。
元野洲町長だったとか。
この「宇野」の秘密?がもう少し先で明らかに。
野洲川を越えて、
守山宿に入ります。
守山宿の街並み。
「うの家」
先ほども宇野姓はありましたが、こちら宇野元総理のご実家でした。
今宿一里塚。
ここまで立派なものも珍しいです。
ちょっと良いなと思った標語。
「心はOPEN、戸はSHUT」
高いビル群が出てくるとそこは次の宿場町、滋賀県の草津宿です。
江戸時代からうばがもちが人気のお菓子です。
家康も芭蕉も食べた柔らかい餅です。
中山道に戻るとアーケード街を進みます。
トンネルがあります。
実はこのトンネルを反対側から覗き込んだことが6年目にあります。
6年前に東海道を踏破した時にトンネルの反対からいつか中山道も踏破したいと思っていました。
ここから先は東海道も中山道も同じ道なので勝手知ったる我が家のようです。(言いすぎ)
合流地点とトンネル。
草津宿の本陣は公開されています。
吉良上野介も浅野内匠頭も数日差で宿泊していたという本陣です。(その宿帳が残ってます)
とても綺麗に保管、保存されています。
日本酒、道灌蔵。
太田道灌の親戚が営む太田酒造。
伯母川を渡ります。この辺で熱烈な応援を頂きました。
全ての方の応援が力になるそんな旅路でした。
中山道の文字がないのは悲しいですが、
同義語ということで東海道を行きます。
いっとう美しい橋が。
そう瀬田の唐橋です。
琵琶湖にかかっています。
この日の天候も最高。
琵琶湖沿いを走ります。
足取りも心なしか軽くなりました。
琵琶湖から京都方面を進むと義仲寺。
「木曽殿と 背中合わせの 寒さかな」
大津宿に入ります。
三権分立の授業で出てきましたね、大津事件。
ここは2階建ての建物が並びます。
ロシアの皇太子が襲撃された大津事件の発端の場所。
やはり2階建てが多い。
マンションにも2階部分が特別に設えられています。
これは大津には巨大な山車があって、その上からチマキのようなお守りを巻く風習があります。
その出汁の高さが丁度2階部分くらい。一度見た事がありますが巨大山車が練り歩くのは壮観です。
路面電車と合流したところで、左折すると京都方面。
一山越えなければなりません。
坊主めくりの最強坊主、蝉丸はこの周辺に住んでいました。
蝉丸神社。
百人一首では
「これやこの ゆくもゆかぬも 別れては
知るも知らぬも 逢坂の関」
その逢坂の関。
大津宿からの山道の頂上です。
上りきると後は下り。
丁度そのスタートに有名なうなぎ屋の「かねよ」があります。
また別の蝉丸神社も。
月心寺というお寺の中には走井の井戸があります。
この水を使った走井餅が有名で浮世絵にも描かれています。
山科の辺りに分岐道があります。
髭茶屋追分。
左に行くと大阪、右に行くと京都。
何度かここを走っていますが、石の道標が壊れてたりで、
修復の跡が見て取れます。
山科の景色。
後は下り坂。
旧街道を走るようになってから、
ドイツ生まれオーストラリア育ちの自分と日本とのつながり、
そして日本の歴史でのつながり、人と人とのつながりを強く感じるようになりました。
この旅でも数十名の方に声援を頂き、お店ではおまけを頂き、
旅人と一期一会の会話を楽しみ助けられてきました。
中山道は、孤独を教えてくれて、理想を教えてくれて、そして宇宙を教えてくれました。
一人峠を越える孤独。
歴史とともに歳を重ねた宿場町、しかしそこに残る風習や産業、そして将来的な人々の理想。
広大な大自然を目の当たりにし、夜は星が煌めく空。
その全ての光景に日本という色を見た気がします。
京都・三条大橋。
ゴールです。
6日間315キロ。
長野、岐阜、愛知、滋賀、京都。
5つの県を跨いできました。
よく新幹線に乗れば数時間なのにと言われますが、
それは半分合っていて半分間違っています。
走って旧街道を行くと、その村の、その町の、その駅の文化や自然、人と触れ合います。
それはその駅に降りないと触れられません。
そのために新幹線を1駅ずつ、在来線を1駅ずつ降りていた方が走るより時間が掛かると思います。
この壮大な現実性の連続こそ、ランニング旅の醍醐味です。
ラグビーワールドカップ2019日本大会終わりに初めたこの旅は
ラグビーワールドカップのプール組み分け抽選会でお世話になった京都の白崎さんとの乾杯で終了です。
当時は仕事を終えた打ち上げの3次会でラーメンを食べたので今回も。(笑)
オリンピック・パラリンピックが終われば今度は
東海道と中山道を通って京都を往復する1000キロの旅にチャレンジしようと思っています。
自分の脚でしか見られない風景。
今後も中山道の良さを伝えていきたいと思います。
(終わり)
激走!中山道315km⑤岐阜関ヶ原〜滋賀近江八幡(55キロ)
ラグビーワールドカップを終えて300キロの旅に出て、それも5日目。
残り100キロを切りました。
5日目はここ、関ヶ原から始まります。
合戦で有名ですが徳川幕府になってから制定された中山道の宿場町でもありました。
どちらかと言えば関ヶ原の合戦地推しなので、宿場町というよりは戦国ロマンを感じる場所です。
旧街道では珍しいかも知れません。東海道でも桶狭間のすぐ側を通りますが
歴史好きでしたら誰がどこに陣を張ってどう移動したかなど
事細かに案内板がありますし、5キロ位の中に陣地が点在しているので1日遊べます。
他にも源義経の母が命を落としたり、壬申の乱が起きた地であったり日本の歴史が凝縮されてます。
関ヶ原たまり
http://www.osakeosake.com/yoto/tamarisyou.html
関ヶ原の宿場町の風情。
天下分け目の決戦で自身の想いを遂げた地をその後
宿場町に制定した家康はどういう心情で見ていたのでしょう。
中山道の旧道を探しながら走ります。
今の日本に繋がるいくつもの歴史がある街並みは大変静かでした。
もうすぐ不破関です。
藤古川。壬申の乱で両軍が挟んで睨み合った川と言われています。
今は静かに関ヶ原を流れる川です。
鉄道の線路の横の小道を行きます。舗装はされていますが車は殆ど通りません。
人とも会いません。
古を今に伝える一里塚。
中山道は、
東京
埼玉
群馬
長野
岐阜
と続いています。(昨日は宿泊のために愛知に入りましたが中山道から少し外れました)
県道と外れ旧中山道にて県境を跨ぎます。
松尾芭蕉も旅した道です。
正月も 美濃と近江や 閏月
しかし松尾芭蕉の健脚ぶりは都市伝説の忍者であっても驚かない。
国境を挟んで宿泊所がそれぞれあったことから、
寝物語の里と呼ばれています。
寝ながら他国の人と話せたというわけです。
その家来と出会った場所という伝説もあります。
ただひたすら走り続けます。
肉体的には膝の痛みが尋常ではなく、とにかく怪我しないように
致命的な痛みか、ただの痛みなのか見極めながら進みます。
中山道の道標。
自分が正しい道を行っていることがわかり勇気づけられます。
地図を持って、Google Mapに自分で行程を作ってスマートフォンに記録指定ますが、
現在の道として扱われていないところも旧中山道は多く手探りです。
20キロ区間くらいGoogle Map上では通れない道になっていることも驚かなくなりました。
都市に住んでいると見えなくなることがありますね。
中山道・柏原宿の始まり。
もぐさが有名で「福助人形」はここで働いていた番頭・福助が発祥。
静かな静かな朝の柏原宿。
福助が働いていた伊吹堂亀屋。
安藤(歌川)広重の浮世絵にも福助人形が描かれています。
■伊吹堂亀屋
柏原歴史館。地元のカフェとして賑わっていました。(屋外に人は少ないのですが)
ボンタイン珈琲。なんとなく愛知にある幻のトラジャコーヒーを出すイメージ。(笑)
柏原宿西側の外れにある道標。
一里塚跡。
宿場町が終わると再び里山を走ります。
本当に美しかったです、柏原宿。
トレイルのような極上の道を行きます。
膝に優しい。(笑)
林の中を行きます。
もうクマの恐怖はありませんが、猿はたまに見ました。
1人で走っていると怖い時もありますが、未知への興味真がそれを上回ります。
それが旧街道を走ることの醍醐味です。
醍醐味と言えば後醍醐天皇の側近、北畠具行卿が鎌倉幕府討伐に失敗して斬首されたのもこの辺だったらしいです。
お墓もあります。
かわいく着飾った地蔵群。
一度出て来るともう後は雨後の筍状態。
醒ヶ井宿に入ります。
きれいな宿場町ですが、それだけでなく、、、
透き通った清流が宿場町の真ん中を流れます。
ハリヨという希少な魚が住むそうです。
この中山道道中で1番きれいな清流。
顔が水面に映りそう。
100年続くヤマキ醤油。
天然記念物、了徳寺の御葉付銀杏。
葉っぱの上に銀杏が実るとか。
すぐ近くの清流には、
ハリヨと思しき魚影も。
シモフリ肉屋。良さそう。
近江も近いですし。
一里塚。
番場宿に入ります。
長谷川伸の「瞼の母」番場忠太郎のモデルになった、その名も番場です。
先を急いでいたため立ち寄れませんでしたが
忠太郎地蔵もあるとか。
明治天皇の休憩した場所。
大変な旅であったろうと想像します。
番場宿を抜けてまた静かな道を行きます。
下の道路には車列。
きれいな湧水。
土地の湧水はどんなにきれいでもその村に育ってないと体質に合わないこともあるので
口をつけるには相応の覚悟が要ります。
この後ここで何十匹の子連れ猿に囲まれます。
好戦的な鳴き声と言いこの道中で一番肝が冷えた瞬間です。
さらに暗い山道が中山道の道です。
先ほどの猿の惑星から注意しながら走りを進めますが、
ここには全くいませんでした。
摺鉢峠。昔はここから彦根城が見えたのかも知れません。
新幹線からよく見る独創的な風景を自らの足で見る日がこようとは。(笑)
彦根市に到着です。
近江商人の町ですから、商売人の像が迎えます。
ここは鳥居元宿。
少しカーブした道に一際立派なお屋敷が現れます。
江戸時代から胃腸薬を売る薬屋さん。
薬局としても営業されているので購入させていただきました。
少し中も見せていただき。浮世絵に描かれた看板も現存します。
こういう出会いがあるから旧街道を走るのはやめられません。
まるで歴史上の人物からバトンを渡されているような気持ちになります。
小野小町がこの周辺で生まれ、養女として小野美実にここで預けられたという。
中山道とは離れてしまいますが、彦根道からご上洛道(徳川家康が関ヶ原の合戦の後通った道にちなみ)を通ると
織田信長の安土城、石田三成の佐和山城を通るルートとなっています。
江戸時代には参勤交代での使用が禁止され、将軍家やその客人だけが通るルートになっていました。
今回は中山道を完走するのが目的だったので中山道を行きましたが、
次回はご上洛道を通って歴史に触れたいと思います。
高宮宿に入ります。
だいぶ日も傾いてきました。
そう言えば、ひこにゃんの町、彦根。
立派な屋敷が中山道の両端に構えています。
提灯屋さん。
松尾芭蕉はこちらで一泊。
たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子
という句を詠んでいます。
一番好きな飛び出し坊や、飛び出し飛び太0号。
宿場町のベーカリー。
無賃橋。
その名の通り無料で渡れます。
1832年に最初の橋が架けられて無料だったそう。
現代でも渡り賃取られる橋もありますからね。
松並木。
またおいでやす彦根。
彦根市の終わりです。
日暮れて道遠し。
宿場町と宿場町の間。間の宿、石畑。
何か立派な屋敷。
誰だよ伊藤長兵衛って。
誰だよ伊藤忠兵衛って。
1分くらい考えて思い出す。あ、伊藤忠の創業者か!
伊藤忠兵衛さんもそうでしたね。
ここから青山にオフィスを構えるまでに(笑)。
陰から見守る飛び出し坊や。
飛び出す気満々。
飛び出し坊やと飛び出さない坊や。
江州音頭発祥の地。
歌詰橋を越します。
ここは昔、平将門を討伐した藤原秀郷を将門の生首が追いかけてきた場所だといいます。
秀郷が咄嗟に「歌を一首」と将門の首に言ったら、考えあぐねて歌に詰まり落ちた、と。
なかなかユニークな伝説です。
愛知川宿にたどり着きます。愛知県ではなく滋賀県ですが。
近江商人が象られた街灯。
宿場の名残。
何だかわからないけど探検の殿堂が近くにあるらしい。
探検してるよ俺、のポーズ。
橋を渡ると今日の旅路もそろそろ終わりの時間です。
近江商人の町、五箇荘エリア。
かつては織田信長が安土城を構え、この辺から見えたという話も。
最後の力を振り絞って中山道を走ります。
中山道67番目の宿場町、武佐宿。
本日の旅路はここ武佐宿で終了。
ランニング距離は55キロでした。
彦根で有名な近江チャンポンを食べ。
(味は完全にラーメン寄り)
飲んだ後は忘れずに。
今日の旅路で購入した胃腸薬です。
いよいよ明日は最後の目的地、京都を目指します。(続く)
激走!中山道315km④愛知犬山〜岐阜関ヶ原(55キロ)
この走る旅を始めて4日目の朝。
前日里山を65キロを走った身体は酒も受け付けず、倒れるようにAirbnbで見つけたゲストハウスで眠りにつきました。
思えばラグビーワールドカップが終わってまだ2週間。5年間、良かったことはあまり思い出しませんが
(責任が重くてうまく行ってもほっとしただけ)、
チャレンジングだったことの連続で、改善できることは山積みで。メンタルは相当強くなりました。
それこそ元総理大臣に怒鳴られる位では慌てなくなりました。
そして朝5時に起きます。
野宿でも良かったんですが、携帯電話、夜間走る用のライト、
Goproの充電も必要で地元の宿泊施設、なるべく地域密着のゲストハウスに泊まるようにしました。
1時間で準備をして、6時に出発。
元お寿司屋さんのゲストハウス。
女将さんも大変親切な方でした。
犬山城。目を凝らすと見えてきます。
満月だったか?早朝なのに煌々と輝いてます。
中山道鵜沼宿に入ります。
街道の真ん中を車道が走ってますが、
左右には昔を忍ばせる木造の家屋が多く残っています。
見事な格子。
左手側には日本酒の酒蔵、菊川の文字が見えます。
この鵜沼には松尾芭蕉が滞在したと言われてます。
この白い柱に松尾芭蕉が彫ったという句。
ふく志るも 喰へは喰せよ きくの乃酒
見事な家屋と消防の高見櫓。
ザ・旧街道という素晴らしい、どこか懐かしい風景。
ものを思わせる風情です。
やがて県道に合流します。
さすがと言うかロードサイドに熟女キャバクラ。
まじか岐阜。
美しい秋の空。
中山道沿いの神社。
岐阜と言えば岐阜タンメン。初耳。
中山道を探しながら走ります。
植栽選定中の一里塚。
遂にはもう1基。
江戸時代の旅人のため、4キロ(1里)毎にあった目印でした。
加納宿のはじまり。
八幡神社の立派な樹木。
加納宿に横たわる川。
加納天満宮。
奥に見えるのは岐阜駅。
加納宿が岐阜になったんですね。
目に眩しい11月の空。
木曽は山奥ということもあり寒かったですが、どんどんと暖かくなってきます。
河渡宿。
この時間帯は人気がなく。
生活の息吹を感じます。
学生服屋さん。懐かしい感じ。
トイレマーク。
神様です。一番な心配ごとは足の痛みより、トイレ(笑)。
美江寺宿にある美江神社。(笑)
昔住んでいた大阪の田舎を思い出す風情。
美江寺宿の周辺図。
広重の浮世絵に描かれたという景色。
幾つもの川を越えてきましたがそのそれぞれにロマンと個性を感じます。
旧中山道の道標。
赤坂宿に入ります。
蛍で有名な抗瀬川。
蛍のモニュメントと。
高見櫓。
赤坂宿の本陣跡。
江戸時代の町並み。
格子の屋敷。
赤坂宿を抜けると関ヶ原の戦いのはじまり。
垂井にあるキャプテンつばさスタジアム。
商店街のはじまり。
垂井宿周辺図。
西へ向かうので暮れてくると西陽がもろに。
第一の?鳥居。
昔の旅籠。今はお休みどころ。
垂井一里塚。
新幹線が見えます。ということは新幹線からもこちらが見えるんですね。
次通ったらわかるかな。
桃配山。天武天皇がここに陣を構え山桃を配り勝利した故事に因みます。
徳川家康最初陣地。
秋風関ヶ原。
関ヶ原古戦場。
徳川家康最後陣地。
今日は関ヶ原まで52キロ。
右はご存知葵の御紋(徳川家康)。
ひとりは万人のために、万人はひとりのために、それが一番良い、ということですが
これはラグビーのONE FOR ALL, ALL FOR ONEに通じる昔からの日本人の心意気なんですね。
5日目に続く
激走!埼玉東京200キロ「小江戸大江戸200K完走記」後編:東京編
胃痛に苦しみながら92キロを走り、残りは114キロ。
残る時間は22時間。
前編はこちら↓
激走!埼玉東京200キロ「小江戸大江戸200K完走記」前編:埼玉編 - ランニング・ガイ
昨年よりも30分早く川越・蓮馨寺に帰ってきました。
昨年は上下をフル着替えしたり、ストレッチをしたりと30分以上このエイドで過ごしてしまいました。
今年はこの時間を短くしようと、まずタイツとアンダーウェアは着替えなし。
上とソックスだけ着替え。
ただ疲れているのか動きが遅い。
結局30分かかってエイドを出発します。
時間は22時
暖かい予報なので、ナイトランも昼にプラス1枚の薄着で。
しっかりとライトを付けて、東京へ向かって埼玉川越から川越街道を走ります。
途中で近くに住むロジャーさんともお会いできた。
てっぺんまわったところで待っててくれるのは感謝しかないです。
100キロを超えたあたりから猛烈な眠気。
これは昨年感じなかったこと。
右脚も強烈な痙攣。
正常な判断ができる頭ではない。
リタイヤしたい。
そんな中、会社のLINEから幾つもの明日どこどこで応援してますメッセージが届く。
そこまでは這ってでもがんばらねば。
脚は回復しないが、眠気は東京に入ったら覚めました。
中野坂上のエイド、成願寺でニュージーランドの友人に朝4時の応援を頂き、精神的には回復。歩けるところまで歩こう。
午前4時の東京都庁。
国立競技場。ここでも友人の応援が。朝早くからありがとうございます。
東京タワー手前で日の出。
日が出ると足も回復します。痛みは変わりませんが走れるようになりました。
皇居。
勝鬨橋。会社近く(笑)。
信号は多いですが、スカイツリーまで順調に走れます。
でもいつ終わってもおかしくない足。行けるところまで行こう。
浅草寺。
私設エイドがある鳥越神社。
他にもたくさん応援の方々が道道で私設エイドを開設されており、非常に感謝です。
最後の足を使い切る150キロ〜180キロ区間。
東京は朝霞の方から入って
池袋
新宿
代々木
六本木
東京タワー
皇居
月島
両国
浅草
赤羽
高島平
を巡るコース。
高島平エイド。ここからはあと20キロ少し。
脚はすっかり使い果たしました。時速5キロでぎりぎりゴールできるペース。
休まずに先を急ぎます。
荒川の風が向かい風。埼玉コースで楽したせいですな。
皆さんの応援を力にして。
最後の力を振り絞り。ラスト10キロ。
途中たくさん生えてるこの木にさえ感謝?し。
206キロの旅、ゴール!
靴下脱いだら血染めでした。
35時間半走るか歩くかし続けました。100キロ地点で完全に完走は諦めてたので驚き。
肉体に限界はありますが、精神に限界はないですな。
206キロは東京から真っ直ぐ伸ばせば静岡のエコパスタジアムに辿り着ける距離。
コースもバラエティに富んでいて面白く、もっと普通の精神状態で楽しみたいと毎回思います。
全ての応援に来てくださった方。
またSNS通じて声援を送ってくださった方のおかげです。
本当に感謝してます。
この歳になると安全地帯にいてなかなかチャレンジすることが少なくなります。
毎年何かしらにはチャレンジしていきたい今後もそう思います。
読んで頂きありがとうございました。
ちなみに歩けるようになるにはまる一日。
走れるようになるには1週間。
10日経った今でも痛みは残ってます。
挑戦される方は参考まで。
激走!埼玉東京200キロ「小江戸大江戸200K完走記」前編:埼玉編
2020年2月22日。
この日の朝8時に400人を超えるランナーが川越に集結しました。
その目的は200キロマラソンの挑戦。
昨年に引き続き僕も参加してきました。
昨年走った時には大会は素晴らしいのですがその距離にもう二度と挑戦したくないと思ったものです。
しかしながら川越や埼玉の風景が懐かしくなり、また完走者特典で先行申し込みができることも相まり昨年末思わずポチッと申し込んでしまいました。
ちなみにネット申し込みで15分も立たないうちに満枠となることで有名な大会でクラック合戦は半ば関門のようになっています。
今回は前回完走してるので少し変えてみました。
①サポートタイツ、サポート中敷きを使わない
②前泊をやめて当日移動
③リカバリーに3ヶ月かからないようにする(笑)
ということで当日朝4時起き移動。
起きている時間は長くなるけど、その分家で熟睡してればイーブン?
まぁリクライニングシートでも疲れが取れる人間なので変わらないかも知れませんが。
アボカドロールが朝食。
全部で4本。残り3本は背負ってレース途中で食べます。
最寄駅のひとつ川越市駅に着きました。
ここから徒歩で会場に向かいます。
約1キロ。もったいない(笑)。
スタートはここ蓮馨寺。
当日受付を済ませて、荷物を置きスタートへ。
暖かいので外で30分ほど知り合いを何名か見つけて話して過ごしました。
前回ほどの緊張感はなく自然体で臨めました。
午前8時スタート。
去年はスタートで混んでた覚えはなかったですが、今年は少し混雑してたような気がします。
5分くらいかかって36時間206キロの旅がスタート。
GPS時計を回し忘れるのが怖いので、5分前からスイッチを入れてスタンバイしてました。
スタート時はいろいろ高揚して忘れてしまうので。
まずは1キロ7分から8分ペースで走ります。
昨年と比べて信号によく止められる気がします。
まぁそれもウルトラマラソンの構成要素の一つです。
川沿いやローカルな道になり、信号がなくなってようやくペースができ始めます。
20キロ地点にいるコバトン。翔んで埼玉的な。
ここの公園トイレはいつも並んでいるので回避し、先のトイレを目標に進みます。
この日は気温12℃くらい。
ウェアの選定は悩みましたが、パタゴニアのキャプリーンサーマルウェイト。
温かいけど風通しがよく、これがピッタリのチョイス。
風が吹くと少し肌寒くなりますが、オーバーヒートしそうな時に丁度風が吹く繰り返しでバランスが取れてました。
さくら堤に入ります。
ここは走りやすいのとトイレが3つあるので安心。
いつもまた春に来て桜見たいなと思います。
2ヶ月後に走ってみようかな、とこの後もう一生、一歩も走らないと心に決めることになるとは知らず無邪気に考えてます。
桜の木々を抜けると再び荒川です。
川幅日本一の地点。
昨年は向かい風15メートルの強風で全然進まない地点でしたが今年は無風。面白いように進みます。
21キロ地点、最初のエイド。
次のエイドが12キロ先と近いので計測をして、梅干しを頂き、御礼を言って先を急ぎます。
ランナーの方に「100キロマラソンを100回走ってる方ですよね!フォローしてます!」と言われて目指してはいるけど公言してないのですが。
有名な井原さんは100マイルでそもそも顔も似ても似つかないですし。
全否定してしまうのもあれなので、そうとも違うともつかない曖昧な笑顔でお答え。
いや、これを機に100本目指そう。今のペースで年1しか出てないと100年かかりますが。
200キロは2回分にカウントとか。(笑)
荒川をひたすら走り続けます。
30キロを過ぎると少し脚に疲労を感じます。
何かの本で読んだこれは疲労じゃない、懐かしい友達だ!と言い聞かせ、やり過ごしながら進みます。
33キロ地点手島エイド。
昨年より15分早く到着。
ここで水を補給させて頂き先へ。
固形物はアボカドロールを背負っていたのでそれを食べながら少しでも距離を稼ぐことに。
さらに10キロほど行くとツボタロード
前の会社にツボタさんという尊敬する先輩がいたのですが、毎回ここを試走する度に、この凸凹道で丁度ツボタさんから仕事の電話がかかってくるのでツボタロードと命名。
抜けると白鳥飛来地やトイレや鹿島古墳群のあるエリア。
なぜかわからないですがここに来るとホッとします。古来のパワーなんでしょうか。
菜の花も咲いていてすっかり春の空気感です。
さらに進むと30キロぶりくらいにコンビニエンスストアが姿を現します。
昨年ここに寄ったら大混雑。
なので今年はスルー。次のエイドもそんなに遠くないので。
川沿いのコースから街中コースへ。
川の色がきれい。
朝の雨が嘘のような穏やかな気候です。
橋を渡るとすぐ鉢形駅エリア。
そこに52キロ地点、浄恩寺エイドがあります。
調子は悪くないのですが、ここで中腰で飲み物を補給していると貧血のような症状で立ちくらみ。
なるべく座らないようにしていたのですが、靴に小石が入っていたこともあり(それを20キロくらい騙し騙し走っていました)、座って靴を脱いで、しっかり靴紐を結び直しましたしました。
出発。昨年より30分早いペース。
暖かいのでペースオーバーにならないよう気にしつつ。
33時間切りを狙えるかもと大それたことを考える余裕がありました、この時は(笑)。
この後急な登り坂が出てくるので歩きを交えた温存します。
17時を過ぎて少し暗くなってきた時にライトを点灯。
ライトを取り出すのも面倒くさくなるくらいの頃。
中山道315キロを旅した600ルーメンの腰巻型ライトをバッグから取り出して点灯します。
昔は頭に付けるタイプを持ってましたが明るさに比例して重くなり肩も凝るので最近はもっぱらウェスト型です。
よく考えたら背負っても腰につけたままでも重量は変わらないので来年からはずっと腰につけておこうかな。
次の20キロも特に問題なく走れます。
昨年よりも距離は近く感じるところと、遠く感じるところがあり不思議。
72キロ地点唐子エイドに到着。
ここまで10時間走りっぱなしです。
残念ながら大人気のエイドのうどんが丁度売り切れている時間帯で、作るのに10分かかるとのこと。
食べたかったのですが予定より30分早く来ている調子の良さをキープしたく、補給せず出発することにしました。
背中にアボカドロールをもう1本忍ばせていたのでそれを出発してから食べたのですが、この時既に思考能力が低下。
これを作ったのは前夜。20時間くらい経ってます。冬とは言え背中に入れていたので恐らく30〜40℃以上の状況で10時間。
案の定、すぐ胃が傷み始めました。
精神的な部分もあるんでしょうが。
胃腸薬を飲みますが、ムカムカした胃はなかなか回復しません。
ウルトラマラソンは脚をやられるのと同様に胃がやられてしまときつくなります。
脚は動くのですが、胃が痛いと調子が上がらず、歩きを交えます。
昼の暑さもあって少し熱中症の症状もあります。
あまり深く考えないようにして、走りと歩きを交えて何とか中間地点92キロの川越・蓮馨寺まで戻ってきました。
胃の調子は相変わらず上がらず。
でも温かいものを食べないといけないのを知っているので、無理矢理インスタントラーメンをかっこみます。
ただ時間的には昨年より30分早く到着しました。
昨年はここで30分以上着替えや何やかんやで休んでしまったので、今回は15分と決めて最小の着替えでやろうと思いました。
次回、下巻「東京編」に続きます
激走!中山道315km③岐阜中津川〜愛知犬山(65km)
午前4時。
共同部屋で誰も起こさないように前日準備を終えたカバンを持って、そっとダイニングスペースへ。
この日は中山道65kmと最長の行程。
前2日で100kmを走った身体は重い。
外は予報通りの大雨。雨装備をしっかりとして外に出ました。
漆黒の闇の中、ポツリポツリと街の灯りが優しく光ります。
600ルーメンのライトを付けて走り出します。
一里塚。
登り坂が細かくある。
普段なら大したことはない坂ですが今日は堪えます。
雨に濡れた中山道。
どうにも調子が出ない。歩くのもきつくなってきました。まだ60km今日は走らないといけないのに。
そんな精神状態でも、そんな状態だからこそ写真だけでも残そうと撮影を続けます。
防水ケースに入れていたため、写真がクリアでなくてすいません。
中山道は人気の少ない住宅地の中を縫うように進みます。
恵那市へ入ります。
恵那市のきのこセンター。
また急な坂を登ります。
登り切ったところで力を使い切り。
身体も震えて、変な汗が出てきます。
ここでリタイヤか。そんな気持ちが心も支配します。
しかしリタイヤしようにも人気のない山奥。
町に出ないことには辞められません。
本当に笑えない旅人の墓。
坂を下るのも力が入らなくなってきました。
そんな中、大井宿にたどり着きました。
脳に力が入らない中、ぼんやりと見える景色。
のれんのデザインが素敵だなぁ、と。
のれんコンテストを町を挙げてやっていました。
近くの神社でトイレに入らせてもらい、
少しそれで体調回復。
もう少しだけ先に行こうと橋を越えます。
少しずつ交通量も増えて安心。
氾濫する川から町を守っていた浸水防止壁。
今は川の流れを変えたらしいです。
西行がここに留まり、墨をするための水を汲んだという西行硯水。
なんの事前相談もなく、いきなり峠。
十三峠。
そしてこの立派は石碑の右にある小さな手書きの破れそうな紙。
「ここから30km、山道で、商店も食べるところもありません」との記。
しばらくこの前でその意味を反芻する。
30km?
この体調で?
飲み物も食べ物もない?
食べ物はトレイルバターが3袋ある。(2100kcal相当)
大丈夫。
問題は水。300ml。
戻って買うべきか。
結論は雨なので、なくなれば葉っぱの水が飲める。実際木の葉に口をつけて飲みましたよ。
それで進むことに決めました、30km続く十三峠。
延々とトレイル道を行く。
アップダウンはあるが走りやすい道。
誰ともすれ違わない。
途中途中アスファルト道に入るが往来はない。
ポツンと一軒家にでそうな人気のない民家が現れるのみ。
電線はある。でもポツンとひとりランナー。
これでも中山道。
400年前はどんな道だったのであろう。
中山道はその後幹線道路や鉄道になったところは多いが、この区間は完全に開発から取り残されています。
だからこそ残っているものがあり、昔の旅人が見たであろう景色を目に刻むことができます。
それにしても人が…いません。
この辺から幻覚幻聴が現れ始めます。
歌いながら来る宇多田ヒカルとか。
一里塚の名残り。
ぼたん岩。珍しい石らしい。
熊でなく、スズメバチ注意、
夏でないのが幸い。
中山道道標。
道はしっかりと舗装されています。
でも車が通る感じでもない。
一里塚。4km進んだということを一里塚毎に認識します。
そしてまた森の中へ。
しばらく熊の音沙汰を聞かないと思ったらやはりありました。
出そうな雰囲気。
長い長い山道を越えると目の前に人家の屋根。
大湫宿。おおくてじゅく、です。
確かに商店はないですが人がいる安心感。
まるで砂漠に現れたオアシスのようです。
集会施設もあり、人の息遣いが聞こえます。
自動販売機もひとつあり、コカコーラに感謝です。
干し柿のある風景。
開発から残されたからこその風景と重みのある町。
自分の足でしかたどり着けない風景です。
秋の名残です。
高札場。昔の掲示板のようなもの。
巨大な岩。
母衣岩。不思議な光景です。
再びの峠道、琵琶峠へ。
すれ違った中山道の旅人が、ここは高低差は大したことないが滑るので気をつけなさい、と教えてくれました。
確かにつるりつるりと滑る石畳。
開けた場所に出ました。
日が照ると暖かく。
脱いだり着たりの繰り返しです。
山の中腹に警察犬の養成所がありました。
中から野太いワンワンという声が人気のない山道に響き渡ってました。
たぶんこの辺車のレース場か試走コースがあるようで、車の爆音も響き渡ってました。
なんとも言えず味のあるバス停。
山の中の弁天池。
再び町に。
ないと言われていた商店が1つだけありました。
何とも言えず懐かしい感じ。
営業時間もわからないですし、確かに商店がないイメージで挑んだ方がこの区間はいいです。
棚田を見ながらアップダウンを繰り返します。
体調はもう暑かったり寒かったり、上がったり下がったりで訳のわからないことに。
好調ではないんだけれども、不調でもない、そんな感じです。
十三峠の入り口から30km近く、まだまだ山道です。
細く曲がりくねった中山道を行きます。
ポツリポツリと民家も。
中山道を挟む工場風の建物。
このでかいパイプみたいなのがこの辺りにはたくさん畑に転がってましたが何に使うのかしら。
バス停まで現れる!文明が!(笑)
耳がよくなる耳神社。
もう無限に同じエリアを走っている世にも奇妙な物語の世界かと思う。
そして遂に十三峠で見た手書き注意看板の逆側に!
同じ人が書いたのかしら。
これがなければもっと酷い山行になってました。
覚悟をくれた殴り書きです。
市街地はまっすぐな道が続く。
平野ラブ。
何か小高い山。
周りが平たいのでここだけやけに目立ちます。
久しぶりの商店街。
御嵩宿。
明智光秀の出身地にほど近い場所です。
立派な資料館がありました。
館内。旅の諸注意が書かれてます。
御嵩駅前。
30km公共交通機関のない山道からここへ出てくると不思議な感覚があります。
ほっとしたらお腹がどっと減ってきました。
可児才蔵。
明智光秀の家来で、最強の武将とな。
初めて知りました。大河出てくるかな?
肉屋で揚げ物三昧。
昼を食べるところもなく、ずっとずっとトレイルバターを吸ってました。
この辺は地名も明智とか、可児とか。
大河が決定しているので盛り上がってました。
日も傾きかけます。まだ10km行かなくてはいけません。
中山道の太田宿。
良い感じに暮れて行きます。
ここで近所に住んでいるという人に会いました。
名古屋から毎日70km走って東京を目指したことがあるそう。小田原で足を怪我してリタイヤになったとのことですが。
どこにも変態ランナーはいます。勇気づけられます。(笑)
完全な闇に。
この後、日本ラインの河原を走りましたが、暗すぎて全く写真にならず。
水の流れる音だけ聞こえます。
最後の5km。車の交通量だけ多くて歩道も殆どない道を。
昼だったら山道のショートカットがあったようです。
夕食、台湾ラーメン。
鵜沼宿の少し手前で橋を越えて愛知県へ。
宿泊は犬山城のある犬山へ。
元お寿司屋さんのゲストハウスに宿泊しました。
65km。こんなにきつかった日はないです。
日テレで3徹した時も、ラグビーワールドカップの開幕を蕁麻疹を薬で抑えながら臨んだときも、これほどではなく。
例えるなら38度の熱を出して結果的にインフルエンザだった時、野球部の練習をやっていた時の同じような感じ。
それが時間が3倍くらいあった感じ。
常に喉と鼻の奥が熱く痛い、そんな一日でした。
くたくたで何とかシャワーを浴びて寝てしまいました。
旅中でこの日だけ居酒屋で地酒乾杯できず。
もっと走力をつけないと駄目だと思い知らされました。あと155kmで京都です。
つづく
激走!中山道315km②長野木曽福島→岐阜中津川(55km)
2日目。
朝5時起き。6時出発。
身体は少し疲れはありますがそれほどでもなく。
まぁまだ2日目ですし。あと5日ありますし。
今日は中山道のハイライトとも言われる妻籠、馬籠を経由して中津川を目指します。
木曽福島の宿を出ると、まだ寝静まった町には御嶽海への応援が多い。
隣町ご出身とのこと。昨日土俵があったあの辺りか。
長野県はしっかりと中山道を道標で示してくれてます。
市販の地図よりも詳細に。
木曽福島駅前。
趣ある立派な駅舎です。
今日は昨日の晴天がどこかに行ってどんよりとした曇り。
木曽は山々に囲まれているので雲が滞留しそう。
中山道を探しながら走ります。
これは行ったら熊が冬眠してそう。迂回迂回。
雲というか朝靄ですね。
徐々に晴れてきました。
パノラマビュー。山に挟まれて、道路、電車、中山道歩道があります。
遠くに見えている堆雪しているのが御嶽山と思われ。
そっと手を合わせました。
この辺では昔から御嶽山は信仰の対象のようで、至る所に昔見えた場所の名残がありました。
一里塚跡。
今日もなかなか昇らされます。
間も無くすると、名所・木曽の桟(かけはし)。
事前に何も調べずに行ってこの赤い橋がそうかと思ったら、たぶん道路を支えている白い柱のこと?赤いのもかけはしのようですが。まぁ名所ということで(笑)。
昔の中山道は丸太とかで道を作って木で支えていたようです。
景色は絶景。
山は御嶽、湯は下諏訪、かけはしは木曽。
ザ・かけはし。
対岸のかけはしは昔ながらに木製の柱で支えられてました。
すごい工事大変だっただろうなぁ。
かけはしを後にして、再び山の間を。たまに車は通るけど人はいない。
川の流れる轟音と目に痛い紅葉で意識が遠くなりそう。
旧中山道方面の道標に従って入ると町がありました。
町角に残る一里塚跡。
上松宿。
寝覚の床、という景勝地があるとな。
山肉もあるとな。美味しそうだが営業開始前でした。
すんきはこの地方で食べられる赤かぶの漬物のようなものらしいです。
で、これが寝覚の床。
奥さん、見てくださいこの石。何カラットあると思います?
的な写真では伝わりにくいですが切り立った石の間を川が流れる絶景。
もう少し行くと真冬になると氷結する小野の滝。
広重の浮世絵に書かれたり、土方歳三が「「志ろたえに み類ひとすじは手都くりの それとまがふをのの瀧つせ」と歌に詠んでます。
今は上を線路が通っているので少し昔とは違う風情がありますが、歴史の流れをずっと見てきた滝には変わりありません。
普通の道でいきなりマイナスイオン全開の滝が現れるのでびっくりします。
中山道に戻ると七笑の看板。この中山道旅では何度か飲みましたが、居酒屋で見たことは一度もありません。東京の長野居酒屋行けばあるかな?(そんなのあるのだろうか?)
中山道は狭くて高台にある道に。
水舟の里、須原宿。
その名の通り、町のいたるところに水舟の水場がありました。生活に想いを馳せます。
中山道の名残を留める町並。
こちらの酒蔵さんは「木曽のかけはし」という日本酒を出されてます。飲みたかったけど行った居酒屋ではついぞ見かけることはありませんでした。
「よいこれが聴けます!」
恐らく踊りのお囃子?的ものだと思うのですが先をいそいでいたので。ごめん、よいこれ。
常夜灯。昔は火がくべられていて宿場町を照らしていたのでしょう。
一際大きな水舟。コップがあるところを見ると飲用か、それとも歯磨き用か。
住民では慣れている水でも、旅人が飲むと身体が順応しておらず胃がやられることがあるので水って難しいですよね。
昔、スポーツでホームが圧倒的有利だったのは水や水が使われている料理で体調が万全でなくなるという話をあるプロ野球選手がしてました。
なんとも言えず面影のある看板。
こういう家を見るとよく手入れされて残されてるなと、住んでいる方に敬意を表したくなります。
定勝禅寺の山門と紅葉。
なかなか距離感が写真では伝わらないですが、もう少し進んだところにまた絶景。
道はあるんだけど、あまり往来のない、人なき道を進みます。
次の宿場町、野尻宿へ。
こういった普通の町並がなんとも言えず愛おしい。それが宿場町。
旧中山道は車の中山道と一部を共にしながら、中山道道路が真っ直ぐ突っ切ったところの左右にポツリと存在している。
慣れてくると道の入り方を見ただけでそこが旧道だとわかる。道幅も大体当時の3間(5.5m)くらい。
ラピュタのような時の止まった家。
敵から攻めにくいように宿場町は少し曲がって全体が見えないようになっているところが多い。曲尺手(かねんて)と言います。
やがて車の交通がある道路から離れて、車も人もいない、線路だけがある道へ。電車もすれ違った記憶なし。
熊もなぁ。ここで出会ったら逃げ場なし。線路に逃げるわけにもいかないしなぁ。
久しぶりに会った人間。(笑)
マニアックなこの地点から歩いて妻籠・馬籠を目指すとのこと。アメリカ・オレゴンからの旅人でした。
二人と別れて先を急ぐ。
川の色が紺碧に。
石でかっ、ってサイズ。
こんな大きさの石?岩?見たことがない。
写真では伝わりにくいのが残念。
どこから来てどこへ行くのか、考えさせられます。
終わりなく緩く昇っています。
相変わらず車はたまに通ります。
人は…(笑)。
あまりの美しさにGoproで撮影。
紅葉の色味がちゃんと出ますね。
ユニークな形の橋。桃介橋。
建てるの大変だったであろう、と当時をしのぶ。大正にできたものを修繕したとか。
電力会社をやっていて、その時の資材運搬に使われていたようです。桃介さんはそこの社長。
道路から砂利道へ。
そしてトレイルへ。
初めてだと山道がどれだけ続くかわからないのが不安。地図では確認してますが険しさまではわかりません。
おなじみ一里塚。こんもりと盛ってますな。
名石、蛇石。由来は…忘れました(笑)。
山道はほとんどなく、すぐにハイキングコースになります。
人の往来もぐっと増えました。妻籠まであと少し。
妻籠宿の手前。
ここから右に入ると宿場町です。
翌週お祭りがあるようで掲示されてました。
妻籠城跡。
建物が出てきました。
巨大な石。これも何かだったと思いますが忘れました(笑)。
妻籠宿のはじまりです。
電柱電線がなく、景観が守られています。
どこか懐かしい町。
ここはたくさんの人で賑わいます。
90%がインバウンドでそのうちの80%が欧米の方、20%がアジアの方とお見受けします。
妻籠。つまご、と読みます。まだ長野県ですね。
そろそろ西陽が強くなってきました。
午後になった証拠です。
本陣。参勤交代の殿様を泊めていました。
観光案内所。
見事な卯立。
二股に分かれた左をいくと昔ながらの土と石の道に。箱根駅伝の昔の写真でよく見る素材(笑)。
木曽の山中になんと立派な宿場町。
もっとゆっくり見たかったです。
日本の原風景。
名物の五平餅を頂きます。
妻籠の宿場町終わり。次の宿場町は馬籠(まごめ)。6.9km先です。山道ですが。
さらば妻籠、また来る日まで。
聖火リレーの発着点がこの看板ら辺です。
ふたたびの山道、
道はよく踏まれています。
宿場から外れたと思ったらまた立派な屋敷が出てきます。今も営業している旅籠つたむらやでした。
石畳を登ります。
偶然、ラグビーワールドカップのボランティア帽子を被った方とすれ違ったので聞いたら静岡でされていたとのこと。ありがとうございましたと感謝を述べ、先へ。
良い感じに日光が当たるところは紅葉が目に痛いです。
そしてまた。熊がために鐘はなる。
これを鳴らしながら走って熊を追い払います。
最近冬眠しないやつもいて注意を促されました。
宮本武蔵にも出てきた男滝。
向こうが女滝。
そして誰もいなくなった。(笑)
滝まではたくさんいらしたんですが。
商店がありました。ポツンと一軒家。
丁度閉めているところで、14時なのに。
恐らく往来が多いのが朝なのでしょう。
欧米系の旅行者が多くこのルートは通ると。
鐘を鳴らしつつ。さよならベアーズ。
長野県の西。はじめまして岐阜県。県境です。
さよなら長野。
熊に県境は関係ありません(笑)。
ラッキーな標高。
777mを越えると下り基調。
町並みが現れます。こるが馬籠?と思ったらまだここは違いました。
一際立派なもみじ。
石畳でよく整備された道を下ります。
展望所。
恵那山が見える、はず。
展望所からは気づかなかったのですが、すぐ下から馬籠宿が始まります。
干し柿が見事。
馬籠の始まり。
坂の中腹に立てられた珍しい宿場町。
火災で失われたそうですが再建されています。
大黒屋。そちもワルよのう。
馬籠出身の有名人といえば、島崎藤村。
生誕地が記念館になっています。
黄昏の馬籠。
立派な江戸時代の町並。
結構急な坂。
水も宿場内を流れています。
馬籠宿の西。
振り返るとこんな感じ。結構高低差あります。
そしてまた田園の中を走ります。
美しい。でも日が落ちるまでに中津川に辿り着かなくては。
しゃぶしゃぶ木曽路の店前にある木曽路の道標。西へ向かう旅人にはここが木曽路の終わり。さよなら木曽路。
きつね膏薬、なにかなぁ?効きそう。山中薬師。
中山道を旅されている二人組とすれ違い少しだけ話しながらご一緒しました。定年で悠々自適、中山道を月一で2日かけて徐々に歩みを進めているとのこと。
この橋でお別れ。旅先の情報交換が楽しいです。
落合宿に入りました。
井戸があります。
柿が良い感じ。
明治天皇は中山道を旅されたことがあり、それを記念した石碑が道中にはよく立っています。
落合宿本陣。
鯱鉾?
路上に迫り出した松。良い雰囲気。
車がぶつかったことがありそうな掲示。
一里塚跡。
18時に中津川に到着。大きな町ですね。
栗きんとんが有名な中津川。さすがにこの時間はやってません。
中津川の夜の町並み。
橋を渡ります。
宿泊したゲストハウスの皆さんと飲み会。カナダ、マレーシア、イタリアからの皆さん。日本の情報を交換し合います。
なんでも航空券が安かったので来で東京は経由するだけでこの中津川、馬籠、妻籠に6日滞在すると。節約でスーパーで寿司とビールを買ってパーティー。
これも面白い考え方ですね。
宿泊したゲストハウス。古民家で素晴らしい風情でした。また必ず泊まります。
皆さんと飲み終わった後、小腹が空いたので近くの居酒屋へ。地元の日本酒を飲まないと1日は終わりません。
2日目は55km。
昨日に続いて1000m昇って、下りました。
アップダウンがありますね。
累積100km/315km。